自宅で痩身
講義が主で実習は少なめだったが、それは実践をおろそかにするという意味ではない。
むしろ、その道であった。
大学の歯科の授業は、ただ目に見える現象について、その治療法を説明するものだった。
言わば対症療法であり、歯の修理法であった。
ところが市波コースでは、そうなった原因を深り掘り下げて、徹底的に探っていった。
考え方が根本的に違っていたから、とにかく〇億年前と書かれていたが、今の教科書では四六億年と教えている。
たった五〇年余りの間に十数億年も違うんだ。
教科書とはそういうものだ。
そんなものに頼ろうとする考え方からして、間違っとる」教科書なしの講義は、市波先生の頭の中から送り出くる事柄を、私たちが受け止めるという形で進められる。
これまでに味わったことのないような、わくわくする「知の冒険」であった。
それだけではない。
「われわれが施してきた治療が間違っていて、患者さんの体を悪くしてきた」という山地さんの言葉も本当だった。
患者さんによかれと思って、歯に詰め物や被せ物をしてきたことが、患者さんの噛み合わせを狂わせ、体に悪影響を与えているのだ。
むやみやたらに歯をガーガーと削り、そこへ詰め物や被せ物をすることによって噛み合わせバランスが狂い、患者さんの体の筋肉や内臓に悪影響を与えていたのである。
患者さんを治療してきたつもりが、実は病人を作ってきたと言われる所以であ毎回の私の報告を聞いて、兄が目を輝かせはじめた。
従来の歯科治療に疑問を感じていたのは、兄とて同様であった。
市波先生が歯科技工士だったこともあって、市波コースは歯科医と技工士が机を並べて講義を受けることができる。
そこで、兄も半年遅れて同じコースを受講することになった。
「乳歯に白金加金を詰めるバカがいる」兄は講義を受けて喜ぶかと思いきや、受講のたびに落ち込んでいった。
その理由は明らかであった。
市波先生のひと言ひと言が、どれも兄にとって耳の痛いことばかりだったからである。
ある日、先生はこんなことを言われた。
「乳歯の詰め物に白金加金を入れているバカがいる」兄はこの言葉を聞いてうろたえた。
自分がそのバカの一人で、入れた相手が自分の娘だったからである。
白金加金は歯に詰める材料として最高の金属だからと、兄はそれを長女の乳歯に入れていた。
市波先生は、大人の歯に入れるならまだしも、乳歯には白金加金を絶対入れてはいけないと言われる。
乳歯は永久歯に比べて柔らかくできているために、硬い詰め物はそぐわないのである。
もちろん、乳歯が柔らかくできているのには、きちんとした理由がある。
乳歯が型えている時期は、成長の真っ盛りなので、顎も顔もどんどんと大きくなってゆく。
その成長に合わせて、噛み合わせも少しずつ変わっていかな-てはならない。
顎や顔が大き-なっているのに、噛み合わせだけが1定のままでいるわけにはいかない。
そこで、噛み合わせを自然に変化させていけるように、乳歯は柔らかく、摩り減りやすくできているのである。
「あそこの歯科医は下手ね、うちの子の歯に入れた詰め物がまた取れたわ」よ-こう言うお母さんがいるが、乳歯に金属を入れればすぐに取れるのは当然である。
もし取れなかったら、大変なことになる。
ほかの乳歯が減っていくのに、硬い金属の部分だけが残されて相対的に高くなってしまう。
すると、そこを避けて噛むような偏った顎の動きになってしまい、顔面の筋肉や顎の骨格をはじめとして全身に悪影響を及ぼすようになる。
「バカがいる」と言われた日、兄は家に帰るとすぐに娘の歯型を取った。
これを見て、私たちは驚いた。
下顎が、はっきりと左にずれていたのである。
白金加金を入れていたのは右の奥歯で、こちら側は減らずに高くなっており、反対に左の上下の奥歯が低くなっている。
このために下顎が左にずれたのである。
しか日工第三章歯は体にどんな影響を及ぼすかも、体を直立させようとしてもフニャッとなって、真っ直ぐ立てない。
これもまた、市波先生の指摘によれば、間違いな-詰め物のせいで、体にも影響が出たということである。
私は、すぐに兄の娘の噛み合わせの調整をして、ほかの歯の部分に虫歯の進行止めを塗る措置をした。
その後四年間、進行止めを塗りつづけた。
生え替わる直前には、側面が欠けた歯もあったが、虫歯はほとんど進行しなかった。
だが、顎のズレは戻りきらなかった。
乳歯が虫歯になったときには、やたらに詰め物をすべきではない。
永久歯に生え替わるまでの間、歯を保たせることを考えればよい。
そのためには、よほどの虫歯でないかぎり、サホライド(フツ化ジアミン銀)という進行止めを塗り、定期的に管理しなければならない。
市波先生は勤めていた歯科医のところにあった文献を、それこそ貧るように読んだという。
その中には、アメリカ人の耳鼻科医師が一九三四年に発表したコステン症候群についての論文もあった。
コステン症候群とは顎関節の機能異常が原因で起こる難聴、耳鳴り、目肱、関節雑音、舌や咽頭部痛、持続的な側頭痛のことである。
この論文は、噛み合わせと耳鼻科系統の疾患には関連があるという内容だった。
市波先生はすでにそれを体験的に身につけておられた。
そして、噛み合わせバランスの不調和は耳鼻科系統に限らず、全身に関わっているという確信を抱いておられたのである。
前述したように、自分の体を実験台にして噛み合わせを調整していくうちに、長年にわたる持病であった心臓肥大や関節リューマチもいつの間にか治ってしまったことに気づかれた。
やがて、このような実践を通して身につけた理論を、北陸や大阪の技工士会などで発表するようになる。
すると、歯科医の中にも歯と全身との関係に注目していた人たちがおり、その人たちの評価を得るようになって、だんだんとあちこちの講演会に呼ばれるようになっていった。
ただ、閉鎖的な歯科医の世界では、市波理論がなかなか受け入れられなかった。
それはそうだろう。
「あんたたちがやっている治療はカスだ」と豪語されるのだから、反発を受けないわけがない。
しかも、所詮は技工士の言っていることだと、まともに耳を傾けない歯科医も多かった。
今でも歯科医が技工士を見下す傾向は強いが、市波先生の時代ならもっとひどかっただろう。
それでも、わかる人にはわかる。
真実を認める人はいる。
たまたま歯科の研修会を運営している人の目に留まって、名古屋と東京で市波コースという研修会を始めるようになったのである。
そんな市波先生の講義にも欠点はあった。
先生は自分自身の体験から噛み合わせと全身との関係を知っておられたため、そうでない人のことが理解できない。
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